甘いの辛いの (お侍 習作80)

        *お母様と一緒シリーズ
 


          




 真昼の陽光の下では白々と乾いていた野道を、今は冴えたる煌月の光が青く冷まして染めている。足元から長く伸びたる自分の影と向かい合うよに、少しだけ前かがみになっての急ぎ足。

 「………。////////」

 本心を言うとそんなにも急ぎたい訳でも無かったけれど。背中に負うているのは、具合が悪くなったシチロージなので、そんな甘えたことなんて言ってはいられぬ。この時点では、何がどうして急に様子がおかしくなったおっ母様なのか、次男坊にはさっぱりと事情が判ってはいなくって。自身が下戸なその上、酒宴にはあんまり縁のなかったキュウゾウなので、実のところ、介抱術にもさほどの心得がある訳ではなかったが。食べたり飲んだりして害のあるものがあった訳でなし、食い合わせてはいけないものも出てはいなかったよなと思い返しつつのとりあえず。今は無人の詰め所にて、静かに横になっていてもらおうと。背中に負うた温みへのみ、意識を傾けている彼であり。具合が悪くても遠慮は忘れぬか、あまり重みはかけぬようにと、加減をしての肩へしがみついていたその手から、
「…っ。」
 唐突にふっと力が抜けたので、ああこれはいけないと足を速める。まさかとは思うが吐き気なぞをもよおしたのなら、このままでは喉や気管を詰まらせるやも知れぬ。さほど離れてもない詰め所まで、一気に駆けつけての大慌てで駆け込んで。囲炉裏の切ってある板の間の隣り、仮眠用にと空けてある部屋へ、土足のままにて上がり込み、明日のおっ母様の仕事をうっかり増やした次男坊なのも…まま今はさておいて。
(まったくだ)
「………。」
 それだけこちらさんもまた、常のまんまの いかにも冷静な鉄面皮の下で、実は…十分 恐慌状態に近い胸中にあった双刀使いさん。それでもその身は躊躇に凍ることもなく、いたってなめらかに動作し続けており。思考や心情と体機能を分断できる、その究極。眠っていたって敵の凶刃から身を躱せるほどの達人の、これも基本なのだろうと思われる。
(こらこら)
「………。」
 まずはと部屋の隅に積み上げられてあった衾の山の1つに近づいて、それへ背中を向けるキュウゾウであり。その高さを後ろ手になっている指先にて測りつつ、一旦母上をそこへ座らせる格好でそぉっと下ろしての、さてそれから。別の衾の山から、迷いのない動作でてきぱきと夜具を延べてしまい。結構不安定な布団の山の上を、そうと思わせる暇もないまま、大事なお人の元へと戻っての、今度は正面から、そぉっとそぉっと抱きかかえて差し上げる。肩に掴まっていた手から力が萎えたのは、眠ってしまったからだったらしく。俯き加減なお顔が浮かべる表情は、特に苦しそうなそれではなかったので、
「…。」
 ああ良かったと安堵をし、そんなおっ母様の膝裏と背中へ腕を回しての、やはり軽々と抱えてしまう、若木のような白百合のような、ほっそりとしたその見かけによらない剛腕者。間近になったお綺麗な寝顔の、何と無防備なことかとちょっぴり見蕩れ。玲瓏清楚にお美しいが、ああそれでも、額の端に小さな疵があると見つけてしまい。またどこぞかで枝に叩かれでもなさったか、どうして…誰ぞへ手厚く構うその半分でいいから、ご自身の身に注意を払わぬお人なのだろかと、やや悩ましげに眉を下げつつも。
「…。」
 今はそれどころじゃあないと思い直して、そおと夜具の上へ下ろして差し上げる。正体がないほど眠っておいでなものだから、首もしっかと座っていなくって。下ろしたそのまま、がくりと力なく少し仰のいての、細い顎が上がってしまい。喉元や鎖骨をしどけなくも晒されてしまわれた、なかなかに艶のある態をほんの鼻先という間近にした次男坊。
「〜〜〜っ。////////」
 あわわと慌ててうなじへ手を入れ、真っ直ぐに直して差し上げる。ついでにと、きつく結われた髪をほどいて差し上げての寝支度も完璧。敷布や掛け布の擦れ合うがさごそという音が静まれば、こちらの住まいの周囲にも虫の声が流れ込み、まだ少し暑かった昼間のその余熱を静めてくれるよう。そんな静謐に ほうと小さく吐息をついて、
「…。」
 確か酒宴の席でのお仕事をなさってたと聞いたから、お酒、弱いお人じゃあないと思っていたのにな。いつだったか甘酒で寝入ってしまわれたのは、疲れが溜まっていたからだったのだし。こたびもそんなのが重なってのことなのかなと。
「…。」
 下ろした髪の流れがゆるやかにうねって、頬や耳元へ寄り添うのが、品のある細おもてをますます際立たせていて。日頃の何割も増してのこと、そりゃあ優しいお顔になった母上を、外していた双刀を背負い直すとそのまま、枕元にお膝を揃え、無言のまま うっとり見つめていたのも一時のこと。
「…。」
 そうそう。何だか具合が悪そうにしてらしてのこの顛末。ええと・えっと、何をすればいいのだろ。そうそうお水。喉が渇くはずだから、汲んでおいてあげなくちゃ。土瓶と湯飲みでいいのかな? 確か“吸い飲み”とかいう水差しもどっかにあるのだろけど、おっ母様に訊かないと判らない。それと、熱が出たらば冷やすのに、手ぬぐいと手桶と。それから寒くなったら何か掛けるもの。先日虫干しした、掻い巻きとかいう袖のついた布団がなかったっけ? …と。ついと立ち上がって水瓶を据えた土間の方へと足を運びつつ、記憶に残ってるそれらしい手筈を頑張って思い出してみている次男坊だったが。いやあのキュウゾウ殿。おっ母様は風邪こじらせた訳じゃないからね?
「…。」
 水口に置いてあった手桶へ水を汲んで、手ぬぐいも間近に干してあったのでそれを取り、一旦、上がり框へ並べてのそれから。土瓶を下げて水瓶まで戻ったものの、柄杓を手にして…思い出す。
“生水は…いけなくないか?”
 キュウゾウがいつ来ても、湯冷ましを作っておいといて下さるおっ母様で。とはいえ、今 提げている土瓶はカラだ。え〜っとと、ここで初めて立ち止まったキュウゾウ。囲炉裏を見やると“う〜ん”と考え込み、それから頑張って思い出す。確か確か、おっ母様はあそこにかかってる鉄瓶の湯を冷まして下さっていた筈で。
「…。」
 柄杓を置いての板の間へと立ち戻り、今度は靴を脱いで上がると
(笑)、自在鈎から下がっている鉄瓶を取る。幸い、半分ほど入っていたので、それをカラの土瓶へとそそぎ入れ、
「………。」
 もうもうと立ちのぼる湯気が示すように、このままじゃあ熱い。酔い醒ましには冷たい水と聞いているから、取り急ぎ冷まさねばならない。えっとえっと、いつもおっ母様はどうしてくれた? 猫舌な自分へ、いつもどうやってお茶やお吸い物を冷まして下さっていた?
「…。(ふー?)」
 疑問符の分だけ自信がありません、次男坊。
(笑) それでも、湯飲みへ半分ほどの湯をそそぎ入れると両手で抱え持ち、口元をやや尖らせて。湯気の立つ表面へふうふうと息を吹きかけてみる。すらりとしなやかな痩躯をしゃんと立てての正座も凛々しく、だけども…ほんのちょっぴり俯いて。伏し目がちになり手元の茶碗を覗き込みつつ、ふうふうと一心不乱に息を吹き掛けている様子は。一途なだけに何だか妙に、その懸命さが愛らしいほど。とはいえ、涼しい夜半だといっても寒いほどじゃあないものだから、これではなかなか冷めてはくれず、
「〜〜〜。」
 湯飲みを抱えていた手のひらの方が熱くなってしまったので、とうとう膝元へと置いての…さて困ったと思案する。まだ眠っておいでだから急ぐことはないのかな。でもでも、ちゃんと用意しておきたいし。
「…っ☆」
 あ・そうだと想いが至ったのが、さっき汲み上げた手桶の水だ。あれへ湯飲みごと浸けたらもっと早く冷めないか? ひらめいたと同時にそちらへ振り返りかけた、そんなキュウゾウの肩越しに、

  ―― 背後からするりと、腕が伸びて来て。

 何の気配も拾えなかったのは、次男坊が慣れぬ方向での考えごとをしていたからでもあったれど。それ以上に相手もまた、それなりの練達だったから。あまりに唐突なことゆえに、左右の一対だろう、ぬうっと突き出て来た二本の腕へは、

  「…っ!!」

 背条が凍るという想いを初体験し、相手を確かめもせずの反射的、まだ自由の利く右手にて下側の刀の柄をつかみ、抜刀しかけてまでギョッとしたキュウゾウだったが、

 「…っ。」
 「湯冷まし、ですか?」

 声を聞くより微妙に先。背中に張り付いた温みに覚えがあって、すんでのところで手が停まったのもまた、おサスガな反射である。キュウゾウの背後へすとんと座り込みながら、その腕を伸ばして来てのおんぶを仕掛けて来たのは誰あろう。ついさっき隣りへ寝かしつけたはずの、シチロージではあるまいか。
「…?」
「???」
 肩越しに振り返れば、どしましたか?と目顔で問いたげに。優しいお顔で んふふと微笑う。うふふとまではっきりしていない笑みなのは、まだちょっと寝ぼけておいでな彼なのだろう。膝立ち半分という、腰を浮かせた姿勢でいるらしく、こちらへ重みもかけずの…おんぶというよりも、後ろからの抱っこをされているような。そんなふわりと甘い抱擁に、
「〜〜〜。/////////」
 あややと次男坊の頬が赤くなる。上背がある分だけ長い腕に、余裕でふんわりとくるみ込まれているのが、まるで。悪しき何者にも触らせませんよと、それは大事に護られているようであり。守られることへではなく、大事な存在ですよと庇護の下に据える対象に数えてもらえることこそが、得も言われず嬉しいキュウゾウで。当然、こんな想いを胸に咲かせたのも初めてならば、それを心地いいものとしていていいのだと、それが“好き”という感情ですよと教えてもらったのもこの人からで。
「ちょっと貸して下さいな。」
 ほややんと、どこか呆けたままでいたキュウゾウの肩越し、乗り出すようにして手を伸ばし、盆に伏せられてあった別の湯飲みを取ったシチロージは、キュウゾウが中途で置いた方ももう片方の手へ取ると、カラの方の湯飲みへと中身をそそぎ移して見せる。
「ほら。こうやれば、早く冷ませるんですよ?」
 まだまだ目が覚め切っていないものか、窮屈だろうにキュウゾウの背中へ張り付いたままで。右から左、左から右と、お遊戯のお手本でもご披露するかのように、手元だけは危なげのないまま何度か白湯を移し替えて見せ、
「ん〜〜〜っと。」
 何度目かで最初の湯飲みへ戻したところで、ふうふうと口元を尖らせての吹いて冷まして、そぉっと一口啜って、さあて。
「こんなもんでしょう。」
 はいどうぞと、懐ろの中の次男坊へと差し出すおっ母様だったりしたものだから。

 「…えと。」

 そもそもからして。自分が飲もうと思って用意していた訳じゃあない。せっかく冷ましていただいたけれど、
「シチに…。」
 目を覚ましたなら飲みたいのではないかしらと、そう思っての冷ましていたものと、覚束ぬ様子で説明しかかったところが。

 「アタシに?」

 おおお、さすがは日頃から言葉要らずの母と子で。あんな短い一言と、彼には少々らしくもなく怖ず怖ずとしている様子とから、あっさり通じたらしい模様。ひょこり、小首を傾げる所作に合わせて。首元からさらりと、涼やかな金属音が聞こえて来そうなほど軽やかに、胸元へすべり落ちてくる金の髪。常からは額やうなじ、耳や頬を晒してのきりきりと引っつめて、きゅうきゅうと束ねておいでのつややかな髪が、そうやって手前へすべってくると。頬の線の細さを強めての玲瓏繊細に、まといつく首条をより白く見せての嫋やかに。ずんとお綺麗になってしまうから、直視するのも大変なほどで。俯いての、はいと小さく頷けば、
「ふ〜ん。」
 そうですかと、何度も呟いてのそれから。キュウゾウの背中から少しばかり、温みが離れたのは。シチロージが、凭れて枝垂れかかっていたその身を起こしたから。完全には離れ切らぬまま、湯飲みを口元へと当てて、少しずつ傾けてゆくのを、やはり肩越しに眺めていれば。

 「…。」
 「?」

 二口三口ほどにて口を離した彼だったけれど。何だか様子がおかしいなと、思うキュウゾウの、手前側の肩を掴んだシチロージ。え?とたじろぎ抵抗する暇間もないままに、何とも強引な力任せに引いて、自分のほうへと振り向かせようとし、

 「あ…。」

 彼の所業にしては珍しく、手加減がない引き方だったので。バランスを崩したキュウゾウが、だが、逆らうほどのことでもなしと、無理も抵抗もせずにいて、そのまま後方へと引き倒される。無理無体だとは思えなくて、きっとまだ酔いが醒めない彼なのだろと、ただただそうとしか思っていないところが、いかに日頃から信頼厚い相手であるかで。四角く座していた足元を軸に、ややくるりとすべった格好にて、斜めに引き倒された次男坊。真上を見上げるその視野へ、引き倒して下さったご当人のお顔が覗く。そおと腕が伸びて来て、板の間との狭間へうなじから差し入れられての頭を支え。今度は加減をしながら、前腕へその細い背中を乗っける格好にて、抱え上げてくれる彼であり。ああそうか、向かい合ってほしかったのだと、やっと気がついた自分の鈍さへ、反省しかかっていたキュウゾウが、

  “……………… え?”

 すいと。流れるように、なめらかに、一切の躊躇が挟まらぬままの真っ直ぐに。こちらからは軽々と持ち上げられてゆき、そしてシチロージの側からも。その綺麗なお顔がどんどんと…近づいて来るばかりではないかと気がついた。

  “え? え? え?”

 彼もまた、嫋やかな姿や所作に似合わぬ剛力者だし、そもそもキュウゾウの側に、逃れようとか拒もうという観念が浮かばない。そうは言ってもこれはちょっと、このままだとぶつからないかというほども、近づいているのにその接近は停まらぬままで。

  “……………… あ?”

 ふわり。何とも柔らかなものが触れたのと同時に。視野が陰って何も見えなくなる。あまりに近すぎて焦点が合わせられなくて。でも、そうなるほんの一瞬前、確かに彼は…ちょっぴり悪戯っぽい笑い方をしたのが見えて。

 「…っ。」

 やわらかなもの。濡れてて、温かで、ちょっと強引に押し付けられたもの。こちらの唇の合わさりを、薄くこじ開けようとしているものか。重なったそのまま、少し角度を変えて来るのを追い損ね、

 「あ…っ。」

 隙間が開いたその途端。流れ込んで来たのは、さっき彼が口へと含んでいた白湯で。何とも手際のいい“口移し”を実践され、ますますのこと、何が何やらと混乱してしまうキュウゾウだったりしたのだが。
「…おっと。」
 呆然としていた分だけ飲み下すのが追いつかず、キュウゾウの唇の端からあふれかかった白湯のしずくを。ちろり、舌の先で舐めての掬い取ったのを限
(キリ)にして。柔らかな微笑の形はそのまま、離れていった緋色の唇が、くすすと艶な色合いを増しての、口唇の端を吊り上げて言ったのが。

 「アタシに、飲ませてほしいと仰せだったでしょ?」
 「〜〜〜〜〜〜。//////////」

 違う違う違うと、かぶりを振るだけの単純反射さえ、今度こそは凍ってしまっている次男坊。真っ赤な瞳を見開いて、ただただ驚いてばかりいる。

   何なに? 何がどうなってるの?

 斜めに抱え起こされた格好で、その身を彼の腕へと預けたまま、理解出来ない戸惑いと不安とで、頭の中がはち切れそうになっているキュウゾウで。怒っている訳じゃあない、叱ろうとしているのでもない。あくまでも、酔っ払っての悪戯なのかな。柔らかな笑顔は罪なほどに穏やかだから、あのね? 目が離せないの。きゅうと抱きしめられると、くっついたところが嬉しいのドキドキで暖まるばかりで。何だか訝
(おか)しいと頭のどこかで拾っての、警戒心はむずむずするのに。相手が悪いの、離れられない。

 「ねえ、キュウゾウ殿。」

 背中にもう片方の手を添えられて、優しい懐ろへと 深々招き入れられての抱きしめられて。伸びやかな声が少し低められ、甘く掠れての囁きを耳元へと直に擦りつける。

  「キュウゾウ殿はどうして、ここで眠ってくださらないのですか?」
  「………え?」

 アタシが嫌いなんですか? 妙に切なる響きで紡がれた一言へ、
「…。」
 そんなこと、一度だって言った覚えはないのにと。こちらからも呆然としたまま、ゆるゆるとかぶりを振れば、
「だって。虹雅渓ではあのアヤマロ公の用心棒をしていたのでしょう?」
 ということは、立派な御殿で寝起きをしていたのでしょうに。それが此処へ来てからは、いきなりの野宿ばかりしておいでだ。
「何が気に入らないのかと数えれば、アタシが始終いるからという、それしか理由は残らないじゃあありませんか。」
「…っ!」
 結構な強引さでの結論づけられたは、とんでもない答えだったものだから。そんなことはないと言いたくての勢いが余って、伸ばした双手がつい、向かい合うシチロージの羽織の襟を掴み締める。そんなしゃにむな態度が、何へどう火を点けたのか、

  「…おや。お相手して下さるか?」

 口元の片側だけを持ち上げて、くすすと笑ったお顔の何と艶たる色香に満ちていたことか。青い瞳の深色が増していて、それがまたもや近づいて来。

 「あ…。////////」

 柔らかな温みが再び唇に触れる。唇の上と下、別々に交互に挟んでの弄る手際がいかにも巧妙で。熟れた果実の、今にも潰れそうなギリギリまで強く。喰
(は)まれる痛さが、だが、じんと切なくて後を引く。抱きしめられていた身をそろり、床へと平らかに降ろされて。頬を撫でてくれた生身の方の手のひらが、そのまま髪を耳へとかけ、その流れの先として、耳朶の縁を撫ぜての首元へもぐり込み、そこで“ああ”と気がついて、

 「刀、外しておきましょうね。」

 背中に当たってて痛かったでしょうに。言うとそのまま、彼の両手が視野から下がり、腰のバックルをかちりと外す。さすがにそれはとの抗いが涌いて、横になってた身が肩が、ひくりと撥ねかけたが、

 「…っ。」

 ぐいと。キュウゾウの薄い胸板を押さえたのが、機巧の左腕。そんなに力が籠もっているようには見えないのだが、

 「無理から起き上がると、肋骨が逝きますよ?」
 「…。」

 淡とした声で低く言われた一言がそのまま、キュウゾウの身を凍らせる。機械の腕が怖かったのでは勿論なくて、こんな脅すような言い回し、この彼からされたのが初めてだったからで。とはいえ、征服者の彼にはどっちだって同じだったに違いなく。

  「ねえ、そんな怖いですか? アタシのこと。」

 額と額、くっつけるのはいつものこと。でも何だか、今日はそれも怖い。真意が見えなくて落ち着けなくての“怖い”が、どこまでもつきまとう。触れずとも判るほど、堅く強ばっているキュウゾウへ、くすすと微笑って見せた彼は。そのまま身を重ねるようにしてのしかかり、

  「大丈夫ですよ。
   すぐにも、前のように仲良くなれます。
   だってアタシは、キュウゾウ殿が大好きだから。」

 特に凄んでなんかない、甘いお声だというのに。どうしてかな。嬉しいはずの言葉の筈が、胸につきつきと痛いばかりだ。ねえ、何か怒っていなさるの? いつもみたいに許してくれないばかりか、いつもの分も怒ってるの? こんな無理強いするなんて、これまでなかったことだけに。どうしていいやら判らない。どうしよう、どうしたら。混乱するばかりのキュウゾウだったから、組み敷くようにのしかかっていた、柔らかで暖かい重みが、不意の一気に退いたのへと気づくのへも。いつもの反射は働かなくて。
「…?」
 胸元からみぞおち、腹との順々に、剥がしていっての身を起こし、自分で起き上がったというような離れ方ではなく。まさに一気一遍に引き離されたという遠のき方であり、見上げた視野にあったシチロージ本人のお顔も、予期せぬ状況にキョトンとしていたくらい。そんな彼の腹回りに、がっつりと骨張った大ぶりな手が見えて、

 「…ったく。治っておらなんだようだの、その酒癖は。」
 「カンベエ様?」

 彼本人の重さだけじゃあない、下へのしかかっていた分の力のベクトルも込みであったろに。有無をも言わさず、元副官殿をキュウゾウから引きはがしたは。こちら様もまた結構な膂力をしておいでの、白い衣紋の壮年様であり、
「何でここにおいでなんですよう。」
 まだ少々酔いが醒めてはいない様子の古女房が、からむような物言いをするのへも耳を貸さず。座り直しての向かい合ったそのまま、やや強引に自分の懐ろへまで掻い込んだ相手の頭へ手を添えると、自分の肩口へぐいと押し付けるようにして、凭れさせてしまわれる勘兵衛で。
「…何の真似ですよ。」
 今度はいきなりの子供扱いですかと、間近から不機嫌そうに見上げてくるのへ、
「いいからそのまま寝てしまえ。」
 やはり相手にならぬまま、大きな手のひらでわしわしと、下ろされていたシチロージの髪を梳いてやる。
「ちょ…っ。」
 やめて下さいよと払うのに、伸ばされて来た手をがっしと掴み止めたカンベエが、

  「…。」
  「…う。」

 何も言わぬままに強い眸で見下ろせば。真顔の凝視に籠もった気迫には敵わぬか、抵抗するのは辞めてしまい、大人しくなるシチロージ。そうしてから、どのくらいかすると。
「………。」
 強い指にてごしごしと、髪の下までを撫でられる感触が、乱暴でありながらも…思いの外に心地よかったか。
「〜〜。」
 肘を立てるようにして、やっとのこと上体を起こしたキュウゾウの傍らにて。少しずつ少しずつその身が萎えていってのこと、シチロージのお背
(せな)が丸ぁるくなってゆく。そこからは、うとうとと船を漕ぎ出すまでに さして時間も掛からない。最後には自分のほうからぽそりと凭れかかって来、苦笑するカンベエの懐ろの中、屈託のない寝顔で再びの、今度こその熟睡に入ってしまった…人騒がせな酔っ払い様だったりするのである。






  ◇  ◇  ◇



 あらためて隣室の寝間へと寝かしつけ、もう見取りの必要はないと思うがと言うカンベエもまた、囲炉裏端へと戻って来て。キュウゾウが項垂れて座す隣りの辺へと腰を下ろし、酒と一緒に極端に甘いものを食べると、悪酔いしてしまうことを話して聞かせ、
「もともと、あやつはそんなに酒に強い訳じゃあない。ただ、自分から酌をして回ったり、場を盛り上げる話を持ち出したりが巧みで、そうやって酔いを過ごさぬようにと上手に調節しておっただけの話での。」
「………。」
 相手の話を良く聞いてやり、気を逸らさずにいてくれる彼なのは重々承知のキュウゾウだったから、そういう性分だとの説明もあっさり理解に至ったらしくって。話を促す眼差しに頷くと、
「ところが。悪酔いしてしまうと、そういう加減も乱されてしまうようでの。気を張っていた気概も一気に萎えての、大概はただ眠ってしまうだけだったのだが。」
 くすすと苦笑しながら壮年が思い出したは、先程の酔態か。キュウゾウの方へと視線を戻すと、

 「日頃の鬱憤があったれば、それへの箍も外れるらしゅうての。」
 「…っ☆」

 軍におった頃は儂もたびたび、酔ったあやつからくどくどと説教されたものぞと。肩越しに次の間を見やり、彫の深い精悍なお顔へしょっぱそうに苦笑を重ねる総帥殿だったりし。そして、
「あ…。」
 自分にも思い当たることがあってのこと、キュウゾウが微かに俯いた。

  ―― キュウゾウ殿はどうして、ここで眠ってくださらないのですか?

 常からも、何かしらの話をするそのついで、必ず訊かれていた一言ではあったけれど。そろそろ諦めての、ついでのように訊いているだけと思っていたのにね。彼は少しも諦めてなんかいなかった。最初と変わらぬ、キュウゾウの身を案じる気持ちのそのままに、ねえどうして?と訊いて来ていたのに。こちらときたらば、時には苦笑を浮かべての取り合わないまま、ここを後にして森や岩棚へと向かっていたキュウゾウで。

 「…。」

 懸命な、真摯な気持ち。それを軽んじての足蹴にされるのって、どんなに痛かったのだろうね。なのに、こんな分からず屋の恩知らずへ、ずっとずっと柔らかく微笑って下さってたおっ母様。人が頻繁に寄り合う場では、それが味方側の人間の気配でも、いちいち拾ってしまう難儀な性分をしているがため、落ち着いて眠れないのだと。今度、きっちりと説明しよう。それとあのね? シチの懐ろでは眠れるようだから。あんまり寒くなるようだったら、ちゃんと避難して来るからと。ちゃんと説明しようと決めての、それから。

「島田。」
「んん?」
「シチの、あの酒癖のこと…。」

 言いようこそ、中途半端な言葉足らずであったれど。真顔のまま、ずいと身を乗り出して来ての、妙に力が籠もっているキュウゾウだったのは。誰彼構わず絡みついてののち、あ〜んなことをされては溜まらないと、ひしひしと感じ入ってる彼だからだろう。この剣豪が涙目になるほど困惑したような一面をも持つお人だということが露見したというのに、それでもそんな方向で彼を案じている。それがまた、妙に一途なしゃにむさ、可愛らしい真摯さと映ったものだから、
「うむ。万が一にも弱みと目されぬよう、他言は無用ぞ?」
 こちらからも やや大仰に構えてそんな言い方をしてやれば、
「…。(是)」
 いかにも角張っての“うむ”と頷き返す真剣さが、やはり何とも愛らしく見えるから、これまた不思議で…くすぐったくて。シチロージがついつい案じて手をかけるのは、誰の助けも不要なほどに強い彼が、だのに、こんな風に思わぬところが心許ないからだろうと、惣領様にもあっさりと納得がいったらしい。

 「………。」

 固い約束を交わしたところで、やっとのこと落ち着けたのか。少々力んでいた肩が落ちる。紅色の衣紋は彼の剣技を活かすことをのみ優先した型のもの。その刀技は、一言で言えば自由奔放の傍若無人。どんなところからでも必殺の一閃が飛んで来る、一瞬たりとも気を抜けない剣技と相対したなんて、何年振りのことだったろか。どんな角度や方向からでも、自在に刀を繰り出せるようにと、いかにも戦闘服という趣きのこの上着、肩や腕、背中や胸元はその痩躯へ極限まで添うており。それでとますます強調されるは、こんなにも薄い上背の一体どこに、小山のような紅蜘蛛の巨躯を刻んでしまえる、膂力やバネが備わっているのやらという、底の知れない脅威のみ…であったのだが。さすがに今宵のドタバタは、そんな彼をも引っ掻き回したらしいと見えて。
「…。」
 こちらは懐手をしたまま顎髭を撫でつつ、声もかけずに見守っておれば。すぐ間近までにじり寄っていたがため、そのまま彼の頬がこちらの肩へと触れそうになる。何で自分までもが、単に停戦中なだけの…実は斬り伏せたい男の懐ろへ、転がり込まにゃならぬのかと。はっと我に返りかかった彼が、だが、

 「…。」

 何を嗅ぎ取ったものやら。はたと停まると、くんと鼻をひくつかせる気配を見せてから、今度は目当てがあって凭れて来たのがあまりに明らかだったので。

 「何の匂いを?」

 一応 訊けば、顔を上げて。

 「…シチ。」

 衒いなくも手短に応じる素直さよ。そういえばさっき掻い込んだおり、酔っていてのことだろか、少しほどその身が熱かったシチロージだったので。その身から出た残り香も、濃く染みついての強めに残っているのだろう。そんな間接的なものよりも、
「…本人があそこにおるでは無いか。」
 肩越しに背後を見やって、そうと囁けば。
「ダメだ。」
 即答という勢いで かぶりを振って見せる彼で。せっかく眠っているものを起こしてしまおうが、と。鹿爪らしくも真剣なお顔が、叱咤するよに言い返して来たのがまた。何というものか、子供が幼いながらも順守すべき道理へムキになっているかのようで。

 “…で。
  シチを起こさぬためならば、斬って捨てたい相手の懐ろにも擦り寄れる、か。”

 真摯なお顔であればあるほど、そこのところに気づいていない、彼の集中の偏りの強さが忍ばれて。ああ本当に、子供のように他愛ない人性なのだなと思い知らされるというもので。
“これが立ち合いの最中であるのなら。”
 相手の不利やら弱点やらを拾い上げるための機転もまた、恐ろしく働く彼だろに。そうでないとなると、こうまであっけないこの落差、不器用さは、さしもの“戦さしか知らず”な自分ととっつかっつではないだろか。今の平穏な世には不要とされての生きにくかろう存在。そしてだからこそ、シチロージや自分のような もののふの心根や覚悟、気概を知る者には、純粋すぎて危うい彼が目映くて仕方がなくもある。戦争が特化させた究極の侍であり、だが、そこまで行き詰まっていた戦局は、彼が完成したと同時に熟れ切って地に落ち、終焉を迎えたのだからこんな皮肉もないもので。そんな経緯で育っての、こんな風に出来上がってしまった彼を。不幸だ哀れだと思うほど、お偉い自分ではないけれど。

 「ん〜。」

 ただにじり寄るだけには限界を感じてか。むうとむくれて見せたのも束の間、腰を浮かせると、何とも大胆にもこちらの膝へと乗り上がって来る彼へ、

 「年寄りに無体を働くものではないぞ。」

 苦笑混じり、こぼすように言えば。誰が年寄りかとちょいと呆れたキュウゾウが、深紅の瞳が据わりし目許を眇めて見せて。そのままぱふりと凭れて来る身の、何と軽いかとまたまた驚ろかされる。

 「………。」

 ふわり軽やかに夜風に揺れた綿毛の陰から、紅色の衣紋の襟の中が覗けて。陰った中に、うっすらと。まだ赤みの残る横一文字の傷痕が一条。カンベエには重々覚えのあるそれへ、ついのこととて口元が、渋い笑みに塗られてほころんだ。奇縁にも色々あるけれど、互いの首を撥ね合うほどもの激しい立ち合いをした同士が、そんな縁にて知り合ったにも関わらず、こうやって穏やかにも身を寄せ合って同座しているから、これまた不思議。されども天穹にまします煌月には、今更見飽きた奇縁かも知れぬと。声を出さずに小さく苦笑し、童のように懐いた剣鬼さんの髪、そおと撫でての寝かしつけにかかる。慕うシチロージと同じ寝方だぞよと丸め込めば、嫌がりはしなかろと見越しているところは。年の功が培った狡猾さか、はたまた周到なだけなのか。どっちにしたって大差はありませんよと、月も呆れて苦笑する、とある秋の夜長のひとコマでございます。




  〜Fine〜  07.9.23.〜9.24.

おまけ → おまけへvv**


 *お母様と一緒…というか、囲炉裏端シリーズの方かなぁ?
  他のお部屋でもさんざん使ったサブタイトルですので、
  説明が重複しますが、
(苦笑)
  甘いのというのは食い気のことで、
  辛いのというのはお酒のことです。
  おでん、燗酒、甘いの辛いの…なんて売り声があったとかなかったとか、
  大好きな時代劇小説の中に描写があったもんで、はい。

 *で。
  久蔵殿、その操のお初はおさまに捧げましたが、
  唇に限ってはおっ母様が奪ったことになる訳ですねvv
  おっ母様相手に、こんなふしだらなお話を書くなんてと、
  多くの方から叱られそうで、今から戦々恐々でございます。 
(苦笑)

 *というわけで、書き足しの
『翌朝編』もあわせてどうぞvv

**

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv **

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